もんちゃんの雑学集

知ったら誰かに話したくなる!そんな雑学を収集していくブログです

皆様に感謝m(_ _)mーブログを始めて一週間が経ちました

閲覧ありがとうございます。

皆様のスターや読者登録、はてブに励まされ、気付けばブログを始めて一週間が経ちました。

皆様には、大変感謝しております。

ありがとうございますm(_ _)m

 

取り留めもない感じですが、以下、この一週間を振り返ってみたいと思います。

 

実は、当初は別の専門ブログを作る予定だったのです。

しかし、文章を書くのが苦手なのに加えて、自分の専門分野だと思うと構えてしまい、なかなか筆が進まず。。

でも、折角、始めたんだし、まずは気軽で楽しんでもらえるような雑学ブログを作ってみようと思い、スタートさせました。

 

右も左も分からず、ネットでポチポチ調べつつ…

はてなのグループに登録し、ブログ村に登録し、、、あれよあれよとアクセスや読者登録が増えました。

拙いブログなのに、本当にありがとうございます。

 

スターを付けて下さった方や、所属グループの方の気になる記事などに、お邪魔し…皆さん、凄く凝ったブログが多くて、尊敬します。

そして勝手に読者登録してしまっています(ごめんなさい…)。

 

これからの直近の目標は、記事の継続は勿論、折角はてなプロにしているので、独自ドメインを取得したいと思っています。

 

そして、今の悩みは、折角、ブログ村に登録したのに記事が全く反映されないことです。。

色々調べてはみたものの、ITが苦手な私はお手上げで、運営さんに問い合わせ中です。。

 →先程、確認したら、ようやく全て反映されていました。

一安心です。(2019/3/8 16:52追記)

 

また、皆さんのブログを拝見していて、記事を練り直さないとなぁと思っています。

勉強して、見やすいものにしていきたいです。

 

今後、書ききれなかった一つの記事にする程ではないネタは、小ネタ集としてアップしていこうとも考えています。

 

では、短いですが、この辺りで…

 

閲覧ありがとうございました。

今後とも宜しくお願いします!

お金で作られた“うちわ”、その名も「左うちわ」があった!〜古くなった紙幣の末路

左うちわ余裕のある楽な暮らしぶり…羨ましい響きですね。
この左うちわの語源は、「一般的に利き手でない左手で、うちわや扇をゆっくりと使う姿は、あくせく働く必要がなく、ゆったりした生活を送っているよう見えるため」だそうです。
ところで、お金で作られた「左うちわ」があるらしいという、古くなった紙幣のリサイクル話があるということなので、どういう事なのか調べてみました。

 

まず、日本銀行によると、紙幣の平均的な寿命は、一万円札で3〜4年程度、五千円札と千円札は使用頻度が高く傷みやすいことから1〜2年程度だそうです。また、寿命が過ぎた紙幣は、年間およそ3,000トン(3億枚)あるそうです。
流通に適さなくなった紙幣は、日本銀行の本支店内で細かく裁断されます。


以前は大部分を一般廃棄物として各地方自治体の焼却施設において焼却処分していたそうです。
どうやら紙幣は、以下のような理由から、一般紙へのリサイクルに向かないため、焼却率が高かったそうです。
*特殊な原料を使用している為に紙質がしっかりしていて繊維質が取り出しにくい
*インキも特殊でインキが抜けない

 

しかし近年、環境保護の観点からリサイクルすることが求められています。
リサイクル例としては、段ボール箱、バインダー・ファイルなどの事務用品、靴・スリッパの中敷、住宅用外壁材、固形燃料、貯金箱、猫用トイレの砂、植木鉢などがあります。
…なるほど、様々な物に紙幣はリサイクルされているのですね。

 

では、本題の「左うちわ」についてみていきましょう。

これは、2005年(平成17年)に、日本銀行甲府支店が開設60周年記念事業の一環として、使えなくなった紙幣の裁断屑のリサイクル方法を募集したことに始まります。
これまで、同支店は、汚れるなどして使えなくなった紙幣は、細かく裁断し来店記念に配る、または一般廃棄物として焼却処分していたそうです。
当時の支店長は、他支店では使えなくなった紙幣のリサイクルを進めているのに、同支店ではリサイクル出来ていないとして、「環境に優しく、山梨県の経済発展に寄与するリサイクル方法を期待しています」と紙幣のリサイクル方法を募集しました

 

この募集に対して、山梨県にある 高野デザイン工房 代表の高野一也氏が「左うちわ」を作ったら良いのではないかと応募しました。
高野氏は、山梨は和紙の産地であったため、紙幣で和紙を作ればいいのでは…と思い付いたそうです。そういえば、紙幣も和紙も、ミツマタから出来ていますもんね。
またリサイクルするのが紙幣、つまりお金なので、「左うちわ」を思いつき、“紙幣をリサイクルした「左うちわ」”というアイデアが生まれたそうです。

 

この案は、めでたく採用され、実用化にも成功し、翌年の2006年(平成18年)、「左うちわ」は商品化されました

 

如何だったでしょうか。なかなかシュール?な話でしたね。
ちなみに、今でも販売されているのか調べてみましたが、2015年(平成27年)に山梨のローカル番組で「開運グッズ」として紹介されたようですが、それ以上の情報は出て来ませんでした。同じく紙幣から出来た「カレンダー」もあるようでした。

「左うちわ」、是非とも入手して、開運し、左うちわ状態になってみたい管理人なのでした。

江戸幕府 第5代将軍 徳川綱吉はカラスを島流しにした!

江戸幕府 第5代将軍 徳川綱吉といえば、「生類憐れみの令」が有名ですね。
この「生類憐れみの令」は江戸時代の元禄期に出された多数のお触れのことで、特定の成文法として存在するものではなく、複数のお触れを総称してこのように呼びます。
「犬公方」とも呼ばれた綱吉なので、「犬」だけが対象とされていたかのように思われますが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、さらには魚類貝類などにまで及んだそうです。
ただ、綱吉が丙戌年生まれの為、特に犬が保護されました。
実際、綱吉自身犬好きで、100匹の狆犬を飼っていたそうです。

そんな動物大好き綱吉が、何と「カラス」を島流しにしたらしい!こんな気になる情報を入手しましたので、どういった事だったのか調べてみました。


以下、昔話風!?に再現してみました。


昔々、ある日、時の将軍 徳川綱吉公が江戸城内の庭を散歩していました。

すると、カラスが一羽、飛んできました。

事もあろうか、このカラス、綱吉公の額に糞を落としていきました

将軍様の御顔に糞を落とすとは何事か!」

控えていた家臣達は、カラスを取っ捕まえました。

将軍様に、このような無礼を働くなんて…死罪以外考えられない!!

しかし困ったことに、綱吉公が出した生類憐れみの令によってカラスを死罪にすることが出来ません

そこで家臣達は集まり協議を繰り返しました。

そして妙案を思い付きます。

そうだ、島流しにしてしまおう!

こうして、そのカラスは、島流しされることが決まりました。

島流し(流罪)が決定したカラスは、特別仕様の牢籠(竹籠)に入れられ、2人の護衛の侍につき添われて、流罪地である八丈島に連れて行かれました

当時の流罪は、罪人(ここでは罪カラス!?)は流罪地に到着するとその場で解放されていました。

例によって、カラスも流罪地にて竹籠から出されました

解放されたカラスは、飛び立ち、江戸の方角へ飛んで行ったとさ。

めでたし、めでたし。


この話は、公事方御定書の下巻「御定書百箇条」という裁判の判例集に記載されているそうです。
ちゃんと、「島流し カラス一羽」や「江戸方面に逃走」など、記載されているそうです。

 

如何だったでしょうか。

いやはや、記事を書いていて、顔がニヤけてしまいました。

裁判の判例集というものは、今も昔も笑える内容がド真面目に記載されているものだなぁとつくづく思いました。

羽田空港の最初の乗客は虫だった!〜 異国に日本の風情を届けた第1便

羽田空港(正式には東京国際空港)は、日本で最も利用客の多い空港です。
管理人も一時期よくお世話になっていました。
世界的にみても、乗降客数が4番目に多い空港だそうです。

 

そんな世界的な空港の最初の乗客が、何と虫??

どういうことだったのでしょうか。

 

羽田空港は、日本初の国営民間航空専用飛行場として、1931年(昭和6年)に「東京飛行場」として開港しました。
しかし当時の航空運賃は非常に高額で乗客がいませんでした。
そこで何と、記念すべき第1便には、スズムシとマツムシ6,000匹が乗せられたそうです。

 

8月25日、午前7時30分、天候は生憎の雨でした。
その飛行機は6人乗りの単葉機で、中国の大連に向けて、滑走・離陸しました。


飛行機を操縦していたのは、もちろん人間でしたが、乗客は大量の虫…

 

どうやら、大連でカフェを経営していた人が、お客様に日本の秋の気分を味わってもらおうと送らせたそうです。

 

当時の新聞に「この飛行機には大連の東京カフェーへ送る鈴虫、松虫六千匹が積まれ東京の秋の声を一路大連へと運んでいった」と掲載されたそうです。

 

虫達は、大連まで、およそ12時間の空の旅をし、無事送り届けられました。

 

如何だったでしょうか。

まさか、最初の乗客が「虫」だったとは、驚きです。

しかも、乗せられた理由が、異国でカフェを営む経営者が「お客様に日本の秋を届けたい」と思ったからだなんて、風情を愛する日本人らしいなぁと、ほっこりとした管理人なのでした。

20世紀梨が出来たのは、少年がゴミ捨て場で苗木を拾ったから!

少し前の話になりますが、久しぶりにテレビでふなっしーを見てテンションが上がった管理人です。そこで、梨について調べていたら、どうやら、20世紀梨は少年がゴミ捨て場で発見したものらしいというネタを見つけたので、紹介したいと思います。

 

まず、20世紀梨の産地としては、鳥取県が有名ですよね。でも、この品種、実は、ふなっしーの住む千葉県で発見されたそうです(船橋ではありませんが…)。
では、ここからは、20世紀梨を発見した松戸覚之助(まつど かくのすけ)氏にフォーカスを当てながらみていきたいと思います。

松戸氏は、1875年(明治8年)に千葉県葛飾郡大橋村、現在の松戸市に生まれました。
松戸少年の父親は、松戸地方が江戸時代から梨の産地であったこともあり、新たに梨の栽培を始めました。そのこともあり、松戸少年は、梨に興味を持ちました。その時、松戸少年は11歳でした。

さて、松戸少年が13歳の春のある日、分家の石井佐平宅に立ち寄った帰り道、ふとゴミ捨て場に目をやると、小さい梨の樹が生えているのを見つけました。それが今まで見てきたものとは違った品種のような気がした松戸少年は、石井氏に話し、この樹をもらい受け、父親が経営する果樹園にそれを植えました。植えつけた時、この樹はすでに数年ものでした。
この梨の樹は「黒斑病」に弱く、思ったよりも育ちが良くありませんでした。松戸少年は、管理に苦労しながらも、断念することなく、「この樹はきっと美しい実を結ぶに違いない」と信じ、手入れを続けました

 

その甲斐があり、植えつけてから10年を経過した1898年(明治31年)、初めて成熟した果実が出来ました。その果実は上品な甘さと、したたるほどの水気をもっており、松戸氏は大変喜びました。その時、松戸氏は23歳になっていました。
従来の品種より優れていることに喜んだ松戸氏は、さっそく東京帝国大学、現在の東京大学をはじめ、その他の専門家に送りました。その結果、その梨は品質、外観ともに優秀であることが認められ、当時の園芸愛好家であった大隅重信氏からも、絶大な賛辞がよせられました

松戸氏は、当初、この梨を、「新太白(しんたいはく)」と命名しましたが、1904年(明治37年)、松戸氏から苗木を分けてもらい育てていた教育者の渡瀬寅次郎氏によって、来たる新世紀(20世紀)における代表的品種になるであろうとの観測と願望を込めて、「20世紀梨」と新たに命名されました。

 

松戸氏は、前述の渡瀬氏をはじめとして新種の苗木を希望する梨農家に快く苗木を分け与えた事もあり、この梨は全国的に普及しました。
また、1910年(明治43年)の日英大博覧会では「名誉賞」を受けました。
その後も松戸氏は20世紀梨の普及に生涯を捧げました。

松戸氏の死の翌年、1935年(昭和10年)に、松戸氏が育てた原木は天然記念物に指定されましたが、太平洋戦争で松戸を襲った空襲で傷つき、1947年(昭和22年)に枯死してしまいました。

 

ちなみに、20世紀梨ですが、地元の千葉県は降雨が多く、病気にかかりやすく栽培が難しかったため、鳥取県で多く栽培されるようになり、一時期は全栽培品種の王座に君臨していました。
現在は、幸水」、「豊水についで3位ですが、この両品種とも20世紀の血を受け継いだ子孫に当たるそうです。

 

如何だったでしょうか。まさか、ゴミ捨て場にあったものが、このように日本を代表するような代物になっただなんて…驚きです。
これも松戸氏が諦めずに努力した成果であり、そのお陰で、今現在、私達は美味しい梨を食べられているのだと思うと、感謝してもしたりない管理人なのでした。

花嫁さんが白無垢を着るのは何故?それは死装束だからー昔は花嫁衣装の白無垢を喪服にして最終的には死装束にしていた

閲覧ありがとうございます。
タイトルの情報をキャッチした時、管理人の脳内では「チコちゃんに叱られる」でのチコちゃんと岡村さんのやりとりが勝手に再生されました…


チコちゃん:ねーねー、岡村、花嫁さんって、どんな服を着てる?

岡村さん:そりゃウエディングドレスや白無垢ちゃいます?

チコちゃん:そうよね、白無垢着てるわよね。どうして?

岡村さん:え?それは…よく「あなたの色に染まります」なんて言うから、白の服なんじゃないかなぁ?

チコちゃん:ふーん、白色は何の色にも染まるから、白無垢を着るのね?…ボーッと生きてんじゃねえよ!!

更にチコちゃん風に答えを言うならこんな感じでしょうか。

チコちゃん:花嫁さんが白無垢を着るのは、死装束だから〜


…茶番にお付き合い下さりありがとうございました。
では、どういうことなのでしょうか。解説していきたいと思います。

 

昔の人は、一度結婚したら元の家には簡単に帰れず親や兄弟にもなかなか会えません。嫁ぎ先で病死や事故など、何が起きるかわかりません。つまりは、生きている間には、もう二度と会うことが出来ないかもしれない…
このため、「娘として生まれた元の家の自分は死んだ」と、婚礼前の自分を弔う意味で死装束と同じ白無垢を着ていたのだそうです。
そして連れ添った相手が亡くなってしまった時には、婚礼の時に着た白無垢の袖を切って白の喪服にし、自分自身が旅立つ最期の時にはそれを死装束にしていたということです…

 

あれ?『婚礼の時に着た白無垢の袖を切って白の喪服』??
喪服は「黒」ですよね?どういうことでしょうか。もう少し調べてみました。

実は、江戸時代まで、喪服は「黒」ではなく、「白」だったそうです。
これは中国からの影響らしく、中国では白色が来世での幸福を祈る色とされて、お葬式で白色の服を着るそうです。この風習が伝わり、日本でも喪服は「白」、特に女性は白無垢を着ていたそうです。

 

では、なぜ喪服が「白」から「黒」に変わったのでしょうか。調べてみると二つの理由が見つかりました。

 

まず一つ目の理由は、明治時代の西洋化です。これにより、様々な欧米の文化が日本に流れ込んできました。
欧米の喪服は一般的に「黒」ですから、これを明治政府は参考にしたのです。上流階級から徐々に洋装の黒い喪服を身にまとうようになり、第二次世界大戦以降には一般の庶民にも広まりました。

 

次に二つ目の理由は、日清・日露戦争です。この戦争ではたくさんの人々が犠牲となり、お葬式の数も多かったのです。
お葬式が度々あれば「白」の喪服では当然汚れが目立ってしまいます。ただでさえ当時は物資も不足し、白無垢の素材である絹の入手がとても困難な状態でした。
そのため、汚れの目立たない「黒」になっていったそうです。


如何でしたでしょうか。文化の変遷は興味深いですね。今の平成の世では常識だったことも、次の新元号の世では非常識になる事柄も出てくるかもしれませんね。

昔、猫を時計がわりにしていた!?そして、「猫時計」として活躍した猫達は「猫神様」として鹿児島県にある猫神神社に祀られている

こんばんは。管理人の住む街では雨がしとしと降ってます。

さて、「雨」といえば、『猫が耳を撫でたら雨になる…』なんてよく言いますが、実は、これ、綺麗好きな猫のする事で、余り科学的な根拠はないそうです。管理人も猫を飼っていますが、確かに余り関係無いかも。。と思います。

猫は癒しを与えてくれるだけで十分なのですが、何と「猫は時計がわりになる!」という気になる情報を入手したので、調べてみました。

 

まず、猫の目の瞳孔を見ると、光の強さによって大きく開いたり、細くなったりしているのがわかります。試しに管理人も飼い猫の瞳孔を明るい部屋と暗い部屋とで比べて見たら…確かに!

 

今のように時計が普及していなかった昔は、このような猫の瞳孔の性質を利用し、時計代わりにしていたそうです。

この起源は非常に古く、中国・唐の時代にまで遡ります。その後、この風習は海を渡り、日本にも渡来しました。
 
また古い歌もあり、その歌の内容は、『午前六時と午後六時には、猫の目の瞳孔の形は円形。午前八時と午後四時には卵型。午前十時と午後二時には柿の種のよう。お昼頃には針の様に細くなる…」です。

当時は昼夜の長さをそれぞれ6等分して時刻を決めるという不定時法を採用していたため、同じ時刻でも季節によって変わりますし、もちろん天候にも左右されますが、晴れた日の屋外ではほぼ正確だったということです。

先程の歌の「六つ丸く 五七は卵 四つ八つ柿の実にて 九つは針」を、昔の時刻から今の時刻に直すと以下の通りとなります。

以下、昔の時刻→今の時刻
*六つ(明け六つ)→午前4~6時頃  
*暮れ六つ→午後5~7時頃  
*五つ→ 午前6~8時頃   
*七つ→ 午後3~5時頃   
*四つ→ 午前9~10時頃     
*八つ→ 午後1~2時頃
*九つ→ 正午

 

他にも時間を知る方法として猫の目の瞳孔を利用したという記録は残っており、忍者も使っていたそうです。

つまりは「猫時計」を使っていたのですね。

 

また、時は戦国時代、島津の第17代当主 島津義弘は、この「猫時計」を戦争に利用したそうです。朝鮮出兵の際に、猫を7匹連れていき、隊の7組に1匹づつ猫を渡して「猫の目が柿の種になったら作戦開始」というように各隊に指示を出し、挟み撃ちを同時に行い、勝利しつづけたそうです。7匹連れていった猫のうち、残念ながら5匹は戦死してしまいましたが、2匹は無事に日本に戻ってきたそうです。鹿児島県には、その猫達を「猫神様」として祀った神社、その名も「猫神神社」が現存し、毎年6月10日の「時の記念日」には県内の時計業者が集まり、お祭りが行なわれているそうです。

 

明治以降、それまで使用されていた不定時法が廃止され、1日を24時間に等分割し時間の長さは季節に依らず一定とする定時法が採用されたため、「猫時計」は姿を消しましたが、猫ちゃん達は、癒しを与えてくれる存在として、今も変わらず皆から愛されて続けています。

猫神神社、機会があれば、是非とも訪れてみたいと思いました。

乾電池を発明したのは何と日本人だった!しかも発明しようとした動機は試験に遅刻したから!?

閲覧ありがとうございます。
乾電池を発明したのが日本人…しかも、発明しようとした動機が「試験に遅刻したから」と小耳に挟んだ管理人は、気になって調べてみましたので紹介したいと思います。

 

日本人として初めて電池を製作したのは佐久間象山であるとされており、その電池は「ダニエル電池」(液体式)であったと伝えられています。
そして、明治時代、乾電池が世界に先駆けて日本で誕生しました。その発明者は屋井先蔵(やい さきぞう)氏です。

 

では、どのようにして乾電池は生まれたのでしょうか。屋井氏の足跡を追いつつみていきましょう。


まず、屋井氏は1863年(文久3年)、新潟県の長岡に生まれました。1875年(明治8年)、当時13歳だった屋井少年は東京の時計店に丁稚として入りましたが、病気のため帰郷し、長岡で時計職人となりました。
その後、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に入学を志しましたが、この試験に5分遅刻してしまったために失敗、また翌年は年齢制限により受験資格を失ってしまい、進学を断念せざるを得ませんでしたこのエピソードがあったため「連続電気時計」を着想したといわれていますそれから3年間は独力で永久自動機等の研究を続けました

研究の結果、1885年(明治18年)、屋井氏が23歳の時、電池で正確に動く「連続電気時計」の発明に見事成功しました。
しかし、当初使用した電池は液体式のダニエル電池などで、手入れが必要なうえ、冬場は凍結して使えないなどの欠点がありました。そこで屋井氏は本格的に「乾電池」の開発に取り掛かりました研究に研究を重ね明治20年(1887年)に「乾電池」の発明に成功しました。
ただ、屋井氏は発明にしたにも関わらず、当時の特許取得料金は高額で、資金不足のため乾電池の特許を取得はできませんでした。また、乾電池を発売した当初、世間の大半が「乾電池などという怪しいものが正確に動くはずがない」と考えており、屋井氏が発明した乾電池は全く売れませんでした。更に持病の為に寝込む日が続き、生活は貧窮を極めました。

また、屋井氏の発明した乾電池の価値を知った外国人が、万博にて自分が発明したものだと主張したため、しばらく時間が経つまで世界で最初に乾電池を発明したのが屋井氏であると認知されませんでした。色々と不遇はありましたが、その後、屋井氏の功績は世間に認められました

そして、1910年(明治43年)、屋井氏は神田区錦町一丁目に販売部を新築し、同時に浅草神吉町に工場を設けました。海外品との競争に勝ち、国内乾電池界の覇権を掌握するまでに発展し、「乾電池王」とまで謳われるようになりました。

 

病気がちで不遇の時代も多かった屋井氏ですが、最後は幸せだったのではないでしょうか。紆余曲折ありましたが、屋井氏の努力が実を結び、本当に良かったと思います。

ブログ村に登録しましたー知ったら誰かに話したくなる!そんな雑学を収集していくブログです

こんにちは。閲覧ありがとうございます。

 

知ったら誰かに話したくなる!そんな雑学を集めるブログにしたいと思い、開設しました。

まだ始めたばかりで記事も少ないですが、1日に1テーマの更新を目標に頑張っていきたいと思っています。

 

後から今日の記事もアップする予定ですので、よかったら遊びに来て下さい。

今日のテーマは「乾電池を発明したのは何と日本人だった!しかも発明しようとした動機は試験に遅刻したから!?」です。

 

ITに詳しくないので、何かありましたら、コメントで教えて下さい。

もちろん記事に関する感想もお待ちしています。

宜しくお願いします。

フルーツの盛り合わせに必ずあるイチゴ…これらは果物なのか野菜なのか

朝の情報番組でイチゴを特集しており、今日の話題はこれに決めてみました。

 

一般的にイチゴは「果物」として食べられていますね。実際、今朝見た番組でも「フルーツ」つまり「果物」として紹介されていました。では、本当にイチゴは「果物」なのでしょうか。検証してみたいと思います。

 

まず、「果物」の定義を確認してみましょう。「果物」とは、園芸学上、苗木が成長して実がなり、その後も何年も実がなる作物のことです。この定義に照らしてみると、イチゴは多年草ではあるものの、草本性の植物であるため「果物」には当てはまらないようですね。

 

実際、農林水産省ではイチゴを「果実的野菜」に分類しています。作付け面積などの生産に関する統計もイチゴは野菜のグループに入っており、生産者側からすると「野菜」という分類になるようです。

 

では、「野菜」と「果物」の違いはどこにあるのでしょうか。先程、園芸学上の定義を示したように、一般的な見解として、樹に実がなるものが「果物」で、そうでないものが「野菜」、さらには種が食べられるものは「野菜」、食べられないものは「果物」、はたまたおかずとして食べるものは「野菜」、おやつとして食べるものは「果物」という分け方もあるようです。

 

農林水産省」の「消費者相談」によると、はっきりとした定義はありませんが、生産分野においては一般的に、「野菜」とは、田畑で作られるもので、副食物であり、加工を前提としない「草本類」のことであり、「果実」とは、数年にわたって収穫可能な永年生作物などの「木本類」のこと、という風に分けられるようです。

 

この基準からしても、やはりイチゴは「野菜」になりますね。ただし実際には「果物」として扱われているので「果実的野菜」となっています。また同じような理由からメロンやスイカも「果実的野菜」に含まれます。

 

如何でしたでしょうか。
管理人としては、「果物」であろうと、「野菜」であろうと、はたまた「果実的野菜」であろうとイチゴの美味しさは変わらないので無問題(モーマンタイ)です。
もう少ししたら、露地栽培のイチゴの季節なので、楽しみな管理人なのでした。

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