「サルのノミ取り」で、サルはノミを取っているのではない!
どのサルにもよく見られる仕草と言えば、“サルのノミ取り”ですよね。でも、これって”ノミを取っていない“らしいのです。どういうことなのか調べてみましたので、紹介したいと思います。
どうやら、そもそもサルにはノミはいないらしいのです。
それでは何をしているのでしょうか。これは彼らの日常的なあいさつ行動なのだそうです。「こんにちは」、「お元気ですか」、「仲よくしましょう」これらの意を含めてお互いに毛づくろい…つまりグルーミングをしあっているのだそうです。
誰かが、いかにもノミを取っているように見えたので、そんな風に名付けたのでしょうが、それは誤解で、サルにノミは寄生しません。そもそもノミの幼虫は、体から落ちるフケなどを食べていると言われています。それらを食べつつ血を吸える成虫になってから寄生するには、宿主が同じ寝床に戻ってくれない限り話にはなりません。サルは、同じ寝床に戻ってくるでしょうか。答えは「いいえ」です。彼らは放浪します。毎晩寝る場所は違うのです。ノミが寄生しようがないのです。安住化しない限り(帰巣性がない限り)、ノミは体につきません。サルの仲間では、例外的に私達にはつきます。
では、サルは何を口に入れているのでしょうか。実は、汗が乾いて毛についた塩分を食べているのです。サルは、こうして自分で塩分を補給することが出来る賢い動物なのです。
如何だったでしょうか。てっきり管理人も「ノミを取っている」と誤解していました。今度からサルを見る目が変わりそうです。
西郷隆盛の過酷なダイエットは、彼の人生を狂わせた!?
今日のお題は「西郷隆盛」という事で、色々と調べてみました。
そうしたら、“メタボ”は現代病かと思ったら、「西郷隆盛氏も苦しんでいた」という情報を入手した管理人は、どういうことだったのか更に調べてみましたので、今日はそちらをお届けしたいと思います。
まず、西郷氏は巨漢でしたが、若い頃は貧乏で粗食に耐え、沖永良部島に流された時は食べ物を満足に与えられませんでした。討幕に奔走していた時も肥満とは無縁だったのですが、40歳を過ぎて新政府の参議となり、高い俸禄を得てデスクワークをするようになると、たちまち太り始めました。
西郷氏は、薩摩の郷土料理「豚骨」に目がなかったそうです。今の一般的な豚骨のイメージとは異なり、骨付き豚肉のぶつ切りを桜島大根と一緒に鍋で煮込み、黒糖や麦味噌、焼酎で味付けしたもので、相当なカロリーがありました。
白米やウナギの蒲焼もよく食べ、下戸で甘い砂糖菓子も好物だったというから、太るのは無理もありません。
今も残る軍服のサイズから推測される西郷の身長は178センチ、体重は108キロもあったといいます。
高脂血症による動脈硬化のためか、胸の痛みを訴えるようになり、心配した明治天皇は、ドイツから招いた天皇の侍医、テオドール・ホフマンに西郷氏を診察させました。
天皇の命だから、結果を出さないといけないと、西郷氏を“メタボ”と診断したホフマンは過激なダイエットを課し、これが西郷氏の運命を変えました。
西郷氏の“メタボ”は危険な状態と判断したホフマンは、下剤(ひまし油)を1日5回飲むよう処方し、白米や豚肉の摂取を控えるよう指示し、運動も散歩程度ではダメだと山歩きを課しました。
今は医師によるダイエットは綿密なスケジュールを組み、健康状態を細かくチェックしながら進められ、危険な下剤ダイエットは行いませんが、西郷氏は下剤と炭水化物抜きの厳しいダイエットに同時に取り組み、山歩きのため愛犬を連れてウサギ狩りにいそしむようになります。
効果は覿面で、西郷氏の体重は3年で80キロまで減ったそうです。
しかし、その副作用も大きかったのです。
もともと胃腸が丈夫でなかったところに下剤を頻繁に飲んだため胃腸がますます弱くなり、1日50回以上便所に駆け込んだこともあったといいます。
この影響で、精神も相当参ってしまったようです。
歴史学者の家近良樹さんは近著『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房)で、西郷氏が唐突に朝鮮使節を志願した背景には、体調不良や精神的な異常があったと指摘しています。西郷氏は板垣退助氏に送った手紙で「朝鮮との交渉が失敗しても、自分が死ねばいい」などと、自暴自棄とも取れる発言を繰り返しました。
朝鮮派遣が大久保利通氏らの反対で中止されると、西郷氏は下野し、西南戦争で逆賊となり、自害しました。
ホフマンのダイエット指導がもう少し緩やかなものだったら征韓論政変はなかったか、逆に動脈硬化が元で命がなかったか…これは神のみぞ知るとしか言いようがありません。
明治天皇は西郷氏の死を大変悲しみ、自害翌日には皇后らに西郷氏の死を悼む歌を詠ませました。西郷氏の死後、自らウサギ狩りを始めたのも、西郷を偲ぶ気持ちからだったという見方があります。
悲しい結末になってしまいましたが、如何だったでしょうか。
何事も、やり過ぎは精神を蝕み、良くないということでしょうか。
しかし、太り過ぎててもいけないので、何事も標準が1番ですね。
元に戻った様です(^^)
先日、「スターが付けられなくなった」とブログをあげたのですが、ようやく元に戻った様です!
よくは分かりませんが、iPadの更新をしていなかったのが、いけなかったのか、更新をしたら元に戻りました。
お騒がせしてすみませんでした。
何とか定期的に更新したいのですが、忙しさにかまけてしまい、ストップしがちです。
それにも関わらず、遊びに来て下さってありがとうございますm(_ _)m
緩やかな更新スピードですが、今後とも宜しくお願いしますm(_ _)m
スターが付けられなくなってしまいました(/ _ ; )
すみません、大分ゆとりが出てきたので、皆さんのブログにもお邪魔したりしてるのですが、どうもスターを付けることが出来なくなってしまいました。。
皆さんのブログ、楽しく拝見しています。
なのに、スターを付けられなくて残念です。。
亀の歩みだとは思いますが、何とか早く解決出来るように頑張ります!
SHARP②〜あれもこれもSHARPが開発していた!
今日は、先週のブログの続きで、SHARPの創業者である早川徳次氏の足跡の続きをお届けします。是非、前回の記事も読んで今回の記事を読んで頂けると幸いです。
早川氏は、近所に住む盲目の女性の世話を頼りに、簪(かんざし)職人として奉公することになり、ここで習得した金属加工技術が後々シャープペンシルなどの発明につながり、そのシャープペンシルがSHARPの社名の由来だという話を前回しました。
さて、早川氏は、自己の成功のきっかけを作ってくれた盲目の女性への感謝を生涯忘れることはありませんでした。このことから、早川氏は『音』を作ることにもこだわり、それは現在にも受け継がれています。1980年に発売された世界で最初の音声電卓を皮切りに、「おそうじロボット」や「ロボホン」などには、早川氏の恩返しの思いも込められているのです。
そんな早川氏は経営に不可欠な「五つの蓄積」として、「信用」「資本」「人材」「奉仕」「取引先」の蓄積を重視し、実践していたといいます。
独立開業してからは、従業員も200名を越え、業績は順調に推移していきました。
しかし、天は残酷なもので、またしても早川氏に試練を与えます。
1923年に関東大震災が発生したのです。この甚大な被害により、2人の子どもと妻を亡くし、工場は焼け落ちました。
残った莫大な借金を返済するため、早川氏はシャープペンシル事業を売却し、大阪へ再起の道をかけ移り住みました。
辿り着いた土地で、早川氏はラジオの試験放送を耳にします。この時、「これからはラジオの時代だ」と早川氏は直感しました。
早川氏は直ぐにアメリカ製のラジオを購入し、分解して研究を始めました。電気の知識は皆無の状態でしたが、見よう見まねで試作を続けること約2年、国産第1号鉱石ラジオ受信機が誕生しました。培ってきた金属加工技術が幸いし、『早川式のラジオは品質が良い』と評判になったそうです。
『良い製品は良い部品から生まれる』このポリシーは、早川氏の実体験から浮かび上がってきたものです。
ラジオには、どんどん改良が加えられ、大量生産を実現する効率化も同時に進められました。専用のベルトコンベアを開発・活用することで、ラジオ1台の生産に費やす時間は56秒という効率的な量産体制を確立したのです。少年時代に会得した効率化の習慣が大いに役立ったのです。
そして、1952年には国産第1号のテレビを発売しました。さらには、電子レンジに調理完了を知らせる音が出る仕組を初めて導入したり(これが「チンする」という言葉の語源となった)、1959年には早くも太陽光発電に関する研究を始めたりするなど、まさに早川氏は時代を牽引していきました。
早川氏の口癖は「他社に真似される商品をつくれ」だったそうで、他社が真似すればそこに競争が生まれ、品質の面でも価格の面でも世の中の人に喜んでもらうことができます。そのためには未開の地を切り拓いていくことが大切で、世の中のニーズに目をこらし、苦難にもくじけない姿勢が求められます。このように、早川氏は「誠意と創意」の精神を説いたのです。
それを表す印象的な出来事があり、それは「電卓」の開発でした。
コンピューターの開発に乗り出したシャープでしたが、国家プロジェクトチームのメンバーには入れず、「自分たちの身の丈に合ったコンピューターを作ろう」と方向性を転換しました。思い浮かんだのが、八百屋の店先で使われていた「そろばん」でした。手のひらサイズの電卓を作ろうとしたのです。
そのために不可欠だったのが半導体でした。
早川氏の命を受けた技術者は、アメリカのシリコンバレーに飛び、複数の半導体メーカーを回りましたが、答えはすべて「No」でした。
実は、当時、半導体は軍需用か宇宙用として使われるのが一般的だったため、電卓に使用する発想すら非常識なものだったのだのです。
帰りの飛行機を待つ空港で、途方に暮れる技術者でしたが、そこで奇跡が起きました。
アナウンスで呼び出された技術者が向かうと、ある半導体メーカーの担当者から連絡が…「あなたの熱意に惚れました」この一言で、電卓用の半導体の提供が決まったのです。
これを機に、SHARPは電子式卓上計算機を発売し、半導体を初めて民生用に実用化することに成功しました。ただ、卓上というだけで画期的ではあったが、目指すは手のひらに乗る大きさでした。広いスペースを要する真空管の代用として白羽の矢が立ったのが「液晶」でした。存在そのものが認知されていない時代に液晶の活用に道筋をつけ、手のひらサイズの電卓を見事に実現させたのです。
如何だったでしょうか。
SHARPの歴史の奥深さに一回で収めきれず二回に分けて記事を作ってしまいました。
SHARPといえば「液晶」のイメージで、管理人の家のテレビや携帯はSHARP製品です。
また、管理人は電卓を使う機会が多いのですが、この電卓が出来たのもSHARPのお陰だと思い、有り難く使わないといけないなと思いました。
最後に…更新が不定期ですみません。
SHARP①〜社名の由来は「シャーペン」である
私たちが使っているシャープペンシル、これを発明した人物が、日本を代表する企業の創業者だそうで、しかも、その企業の社名の由来となっているという話を小耳に挟みましたので、紹介したいと思います。
まず、シャープペンシルを発明した人物は、早川徳次氏です。そして、彼は大手電機メーカー「SHARP」の創業者でもあります。
今日は、早川氏の足跡を辿る形で、これらを紹介したいと思います。
早川氏の実の両親は、生まれて間もなく他界しました。よって、わずか生後1年11か月で養子に出されましたが、その2年後に養母が亡くなると、後妻としてやってきた継養母から厳しく当たられ、食事も満足に与えられない幼少期を過ごすことになったそうです。
そんな中、朝から深夜までマッチ箱貼りの内職を強いられましたが、どんなに数をこなしても、褒められるどころか叱られる毎日でした。
そこで早川少年は「効率化」に目を向けました。いかに短時間で大量生産できるか、いわば生き抜く術として身につけた習慣が、将来のSHARPの事業に大きな影響を与えることになりました。
その後、早川氏は近所に住む盲目の女性の世話を頼りに、簪(かんざし)職人として奉公することになります。ここで習得した金属加工技術が後々シャープペンシルなどの発明につながるのだから、人生とはわからないものです。
実は、シャープペンシルは、早川氏にとって最初の発明品ではありませんでした。その前に発明したのが、ベルトのバックルでした。
ある日、奉公先の先輩に映画館に連れて行ってもらった早川氏は、映画の主人公がズレ落ちそうなズボンを何度も手で引っ張り上げるシーンを観て気の毒に思ったそうです。丁度、和服から洋服に移行する時代でもありましたから、人々が快適にズボンを履くことができるようにと発明したのが「徳尾錠(とくびじょう)」でした。
大げさな演技に他の観客たちが笑う中、早川氏だけはそんなことを考えていたのだから、一風変わっていたともいえるかもしれません。
この「徳尾錠」という長短自在に締められるスライド式のスマートなバックルのベルトには穴を開ける必要もありません。徳尾錠の大量受注をきっかけに早川氏は独立開業を決断します。その時、早川氏は18歳になっていました。
早川氏は独立後、バックルや万年筆の部品を生産する工場を構えた後、アメリカで発売されていた繰り出し式の鉛筆「エバーシャープ」の改良を手がけることとなりました。「永遠に鋭い」を意味をするこの「エバーシャープ(ever sharp)」はセルロイド製であったため壊れやすく芯を削る必要があるという難点がありました。
そこで早川氏は実用的に使えるように金属加工をし、「早川式繰り出し鉛筆」として売り出しました。国内では売れませんでしたが海外から注文が殺到したため、商品名を「先の尖った鉛筆」という意味を持たせて「シャープペンシル」に改名しました。
しかし、関東大震災により「シャープペンシル」の生産工場が焼失してしまいました。
再起のために大阪に移転し、完成させた鉱石ラジオを1925年に「シャープ」というブランド名で売り出しました。
その後、幾度か社名を変更しましたが、事業の基礎となり製品のブランド名として使用していた「シャープ」を1970年に社名を正式に採用することになりました。
つまり、「シャープ」の起源は「エバーシャープ」というアメリカ製の繰り出し式鉛筆だったのです。
如何だったでしょうか。今や電機メーカーのSHARPにこのような歴史があるとは思いませんでした。SHARPの社史は面白いので、また次回もSHARPについて紹介しようと思っています。
昨日、久し振りに記事を上げましたが、こちらは皆さんのブログを拝見出来ていないにも関わらずスターをありがとうございましたm(_ _)m
大分落ち着いてきたので、週に1〜2くらいのペースで記事をアップ出来れば良いなと思います。
また、専門ブログの方もなかなか筆が進まず。。
こちらも近いうちにアップしたいと思いますので、雑学ブログ共々宜しくお願いします!
保険を日本に紹介したのは福沢諭吉氏だった!
保険は、今や私たちの暮らしに欠かせないものです。
かく言う管理人も昨年入院していた際に大変お世話になり、「保険に入っていて良かった。」と思いました。
実は日本に初めて保険制度を紹介したのは、日本人なら誰もが知っている、あの福沢諭吉氏でした。「天は人の上に人を造らず……」の有名なフレーズで知られる『学問のすゝめ』の著者であり、翻訳家であり学者であり、慶應義塾大学の創始者として有名です。
先日、ビール好きだったという記事を当ブログで紹介したので、福沢諭吉氏の雑学第2弾になります。
さて、本題に戻りますが、彼の著書『西洋旅案内』の中にある記載により、日本人は生命保険を知ることになりました。
「災難請合とは商人の組合ありて平生無事の時に人より割合の金を取り万一其人へ災難あれば組合より大金を出して其損亡(そんもう)を救う仕法(しほう)なり其大趣意は一人の災難を大勢に分ち僅の金を棄て大難(たいなん)を遁(まぬが)るる訳にて……」
このように西洋の保険制度を紹介したことで、日本にも同様の制度を広めようとする動きがスタートしました。
では、日本初の生命保険はどんなものだったのでしょうか。
1881年(明治14年)、福沢諭吉氏の門下生である阿部泰蔵氏という人物により、日本初の保険会社が創設されます。
それが今日の明治安田生命の前身の一つ「明治生命」です。
その後、1888年に「帝国生命」(現朝日生命)、1889年には「日本生命」などが設立され、1892年頃には日本各地に生命保険会社が誕生しました。
また、1898年には、生命保険事業の健全な育成を目的とした生命保険会社談話会(生命保険協会の前身)が誕生。1900年には、ドイツの保険監督法を見本に「保険業法」も制定されました。
ただ、一般的に当時の日本には封建時代の諸制度や血族的な互助制度などが根強く、また人々の「人の生死で金儲けなどけしからん」というイメージもあり、当初はなかなか普及にいたりませんでした。
しかし、その後の日清日露の大戦争や大正期のスペイン風邪、関東大震災などで遺族に対し保険金が支払われたことにより、生命保険に対する一般の理解が深まりました。
また、各種制度の改革や生命保険料控除制度の導入(1923年)とも相まって、生命保険の必要性が広く認められるようになったのです。
生命保険だけでなく、今日の日本銀行につながる中央銀行の考え方や、複式簿記を紹介したのも福沢諭吉氏です。
まさに、今日に続く自由主義経済の根本を形作った功労者といえるでしょう。
また、日本の学校や病院のあり方を新しく体系化したり、それまで日本人には馴染みのなかった肉食や西洋の衣食住を紹介したり、新聞に初めて天気予報を載せたり、カレーライスという言葉を広めたりしたのも、福沢諭吉氏だといわれています。
福沢諭吉氏は米国からの帰国の際、20箱以上の荷物を日本に持ち帰ったといわれていますが、そのなかには日本初お目見えの乳母車もありました。
丁度その頃、福沢諭吉氏には小さな子どもがいたのでそのお土産だったようです。
因みに、この乳母車を研究した門下生が、幌(ほろ)をつけた日本独自の乗り物を考案しました。それが今日の人力車だといわれています。
保険制度だけでなく、今日の日本の経済、生活、文化に果たした福沢諭吉氏の貢献度は極めて大きいと言えるでしょう。
如何だったでしょうか。
万一の死亡事故や病死、怪我や病気などによる急な入院、最近では老後の生活や高度医療に対する補償、またクレジットカードに付帯する保険など、保険は暮らしの安心のために欠かせないものとなっています。その始まりは、まさに福沢諭吉氏のお陰だったのです。
でも、最近の保険は、色々と複雑で適度に見直しも必要そうですよね。もう少し心に余裕が出来たら、見直しをしようと思った管理人なのでした。
お金に関する小ネタ3選〜硬貨のギザギザは何故あるのか 他
お金大好き?な管理人がお届けする「お金に関する小ネタ3選」です。
投資等には全く役立たない内容ですので、悪しからず。
小ネタその1〜「円」の発案者は大隈重信氏
我々が使っているそのお金の単位は言うまでもなく「円」です。
その円が生まれたのは明治時代でした。
明治政権が目指したのは、西洋諸国に対抗するため、産業や資本主義の育成を行い国家の近代化を進めることでありました。
この積極的な殖産興業政策を行うため、さらに日本が独立国家として世界から認知されるためにも、統一した貨幣制度は必要不可欠なものとなります。
明治政府は1868年に純正画一な貨幣を製造することを決定し、1969年に大隈重信の建議により、新貨幣は十進法によるものとし、その価名を「円」とすることを決定しました。
大隈重信はその建議の中で、「第一に外国貨幣が円形で携帯に便利であり、この際旧来の方形を円形に改むべきである、第二に両分朱は四進法のため計算上非常に不便であるから、各国にならって十進法とすべきである」としたそうです。(早稲田大学のホームページより)
小ネタその2〜硬貨のギザギザは何故ある?
昔の理由
硬貨・貨幣のギザギザはもともと最高額の硬貨の側面には加工を施すという意味で、ギザギザを施していました。
だから、その時代によっての最高額にギザギザが施されて、その名残が残っているとのことです。
また、昔は削り取った金属を集めて再利用する犯罪があり、ギザギザをつけることが犯罪対策とされていました。
現在の理由は変わってきています。
昔の名残や犯罪の対策というのもありますが、現在は目の不自由な方が触って金額を判別できるようにするためと意味が変わっていきました。
例えば、50円玉は穴が開いている事で10円と100円硬貨との違いがあり、同じ穴が開いている5円玉とはギザギザがあることから判別できます。
100円玉と10円玉も同じくギザギザのありなしによって判別が出来ますね。
ちなみ500円玉は大きさで違いがわかりますが、他にも大きさ的に似ている100円玉とはギザギザの感じに違いがあるようです。
小ネタその3〜硬貨には、支払える枚数に制限がある
電子決済をする人が多くなり余り見かけなくなりましたが、スーパーや、コンビニなどで細かい小銭を何十枚も出して使っている人を見かけたことありませんか?
なんと、硬貨を使える枚数は法律で決まっているのです。ご存じでしたか?
実は定員さんは定められた枚数よりも多ければ本当は断っていいのです。では、一体いくらまでなら大丈夫なのでしょうか。
こうしたきまりは「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律施行令」という長い名前の法律で定められていますが、そこには、「貨幣は、額面価格の20倍まで限り、法貨として適用する」と書かれています。
つまり、1円玉なら20倍ですから20円まで。5円玉なら20倍で100円。10円玉も20倍なら200円までは使っていいわけです。そのため、いずれの硬貨も21枚以上使用するのを断られても、相手に文句言うことはできません。驚きですね。
ただし、こうした法律を知っていても、コンビニの店員さんはやっぱり断れないでしょうね。
如何だったてしょうか。お金に関する雑学をピックアップしてみました。
「金」と漢字一文字にも、沢山の雑学があり、興味深いと思いました。
あと、アナウンスになりますが、前回の4/4にアップしたブログを再編集しています。
それに伴い、皆さんから頂いたスターが消えてしまいました。。
本当にごめんなさい。
今、忙しい時期なので、ブログの更新が止まりがち&皆様のブログを見に行けないのですが、
お許し頂ければと思います。
専門のブログも始めました
ご無沙汰してます。
ついつい、仕事に夢中になり、ブログの更新が止まってしまいました。
一部の方はご存知かもしれませんが、4/4/'19から専門の方のブログも
作ってみました。
イマイチはてなブログの機能に私の頭がついて行かず、不自然になって
しまっていたらごめんなさい。
ブログの始めました日記も2つもアップしてしまう体たらくぶり。。
混乱した方もいるのではないかと思い、重ねてお詫び申し上げます。
どちらの日記も、これからの繁忙期で、毎日の更新は難しいと思います。
また、皆様の日記を拝見しに伺うこともままならないと思います。
どうかお許しください。
では、今後ともよろしくお願いします!
追記:4/4の日記に星を下さった皆さん、ごめんなさい。
更新でなく再アップしてしまったので、星が消えてしまいました。。
あと、専門のブログは、3/1にスタートになっているようです。
なので、そちらが新たに始める専門ブログになります。
どちらも、よろしくお願いします!
名言!それとも迷言!?「ビールは酒にあらず」by福澤諭吉〜禁酒中もビールだけは飲みたい!
一万円札の肖像に描かれるほどの偉人であり、誰もが知る『学問のすゝめ 』の著者でもある福澤諭吉。
お堅いイメージがありますが、実は大のお酒好きとして有名なのです。
生涯に渡ってお酒を好み、特にビールに目がなかったそうです。
今日は、そんな福澤諭吉のお酒にまつわるエピソードを中心に紹介したいと思います。
福澤諭吉は、豊前国中津藩、現在の大分県中津市の下級武士の子として生まれました。
中津は門閥制度のしがらみが強く、少年時代の諭吉は封建制の辛さを肌で感じながら育ちました。
下級武士だった父親は出世の道がないため、諭吉を坊主にしようかとも考えたそうです。
この郷土の封建制に対する反発が、後に西洋の平等思想や実力主義を取り入れる思想的背景の原点になったのでしょうね。
既に幼少の頃から、お酒に関するエピソードがあり、月代(さかやき)を剃るのが嫌いだった諭吉に母親が「散髪すれば酒を飲ませる」と説得して散髪していたそうです。
22歳の時、諭吉は、兄のすすめで大坂・適塾の門をたたきます。
諭吉が入門した適塾とは、蘭方医の大家・緒方洪庵が大坂に開いていた学塾で、全国から俊才が集っていました。
門下生は3,000人に及ぶともいわれ、長州藩の大村益次郎や福井藩の橋本左内など多くの人材を輩出しました。
塾内には上下の身分などなく、成績の良い者が講師を務めるシステムでした。
適塾の自由闊達な雰囲気は、封建制を嫌う諭吉にとって非常に居心地がよいものでした。
この全国から秀才が集まる塾で勉強ばかりしていたかといえばそうでもなく、仲間たちとお金の許す限りお酒を飲んでいたそうです。
諭吉は、飲みっぷりだけでなく食いっぷりもよく、自らを「牛飲馬食ともいうべき男」と称していました。
学生のため常にお金がなく、お酒の調達には苦労したようです。
適塾を卒業して江戸へ出た諭吉は、蘭学塾を開きます。
これが慶應義塾の起源です。
この頃も、お酒は第一の楽しみだったそうです。
その後、3回の海外留学を経験した諭吉ですが、その頃に出会ったビールをきっかけに大のビール党になります。
留学の後に西洋人の生活様式について書いた『西洋衣食住』には、以下のような記述があります。
"「ビィール」と云ふ酒あり。是は麦酒にて、其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し。
(「西洋衣食住」/『福澤諭吉全集』所収)"
現代の言葉に訳すなら、「ビールという酒がある。それは、麦でできた酒で苦味があるが、胸の内を明かすことができる。その苦味を好んで楽しむ人も多い。」つまりビールは、今でいう「飲みニケーション」にぴったりの酒だということを言っているのです。
諭吉は、自宅にビールを常備し、知人が来ると振る舞っていました。
お酒は好きだが乱酔することは嫌い、「品のよい大酒飲み」と自覚していました。
このようにお酒が大好きな諭吉ですが、30代半ば頃から体調を崩し、節酒に励むようになります。
しかし、大好きなビールだけはやめられなかったようで、ついに「ビールは酒にあらず」という名言を生み、毎日のようにビールを飲んでいたそうです。
「その他のお酒は断ち、飲んでいるのはお酒ではないビールのみ」という持論によれば、禁酒に成功したということらしく、「とうとう酒欲を征服して勝利を得た」と宣言もしたそうです。
如何だったでしょうか。
お堅いイメージでしたが、禁酒の言い訳など、何とも言えない人間味あふれるエピソードで、顔がほころびました。
今日の晩酌はビールにしたいと思います。
オリンピックマラソンの世界最長記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3で保持者は日本人!
※注意!NHK大河ドラマ「いだてん」のネタバレになるかもしれませんので、閲覧にはご注意ください。※
今、何かと話題のNHK大河ドラマの「いだてん」。管理人は、時間帯が合わず、見ていないのですが、ネットサーフィンをしていたら、興味深い数字を目にしました。
オリンピックマラソンの世界最長記録は、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。…二度見してしまいました。しかも、この記録の保持者が、「いだてん」の主人公 金栗四三(かなくり しそう)氏なのだそうです。
今日は、このエピソードを紹介したいと思います。
1891年(明治24年)、金栗氏は熊本県玉名郡春富村、現在の和水町の名家の8人兄弟の7番目として生まれました。
父親が43歳の時に生まれたことから、「四三」と名付けられました。
5歳頃までは、ひ弱な子供でしたが、10歳頃には、自宅から小学校までの山坂を越える往復約12kmの通学路を、近所の生徒たちと毎日走って登下校する「かけあし登校」を始めたことで体力が付き、マラソンの基礎を築きました。
金栗氏は、1911年(明治44年)、20歳の時、翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、当時のマラソン距離25マイル=40.225キロを、2時間32分45秒で走りました。これは、当時の世界記録を27分も縮める大記録でした。これにより、金栗氏は、日本人初のオリンピック選手となりました。
さて、翌1912年(明治45年)のオリンピック本番、最高気温40°Cという記録的な暑さの中、金栗氏は懸命に走りました。しかし、金栗氏は、折り返し地点の給水所に立ち寄らず、レースの途中で日射病になってしまい、意識を失って倒れてしまったのです。
金栗氏は、通りかかった近くの農家の人に介抱され、目を覚ましたら翌日の朝だったそうです。このため、金栗氏はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国しました。その日の金栗氏の日記には、悔しい気持ちが綴られていたそうです。
この金栗氏の棄権は、オリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われてしまいました。
ちなみに、金栗氏が倒れた直接の原因は日射病でしたが、他にも次のような事情がありました。
* 日本は初参加で、スケジュール調整や選手の体調管理など、選手サポートのノウハウが無かった
* 当時、日本からスウェーデンへは船とシベリア鉄道で20日もかかり、選手への負担が大きかった
* スウェーデンは緯度が高くオリンピック開催期間はほぼ白夜であったため、不慣れな日本人には睡眠に支障があった
* 当時のスウェーデンには米がなく、予算の都合で人数分を持参するのも難しかったなど、食事の面で苦労した
* 金栗氏は足袋で走っており、舗装された路面での練習に慣れておらず、足袋が破れヒザを痛める結果になった
* マラソンの当日、金栗氏を迎えに来るはずの車が来ず、競技場まで走らなければいけなかった
* このレースでは参加者68名中およそ半数の33名が途中棄権しており、またレース中に倒れて翌日死亡した選手(ポルトガルのフランシスコ・ラザロなど)までいた
こうして、マラソン中に消えた日本人の話は、地元で開催されたオリンピックの話題の一つとしてスウェーデンではしばらく語り草となりました。
時は流れ、1967年(昭和42年)、金栗氏は、スウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されます。
この記念式典の開催にあたって、当時の記録を調べていたオリンピック委員会が、金栗氏が行方不明扱いになってしまったために正式な記録が付いていないことに気付き、金栗氏を記念式典でゴールさせることにしたのです。
この招待を受けた金栗氏は、ストックホルムへ赴き、式典で競技場をゆっくりと走り、場内に用意されたゴールテープを切りました。
この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされました。
ゴール後、金栗氏は、「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とユーモア溢れるスピーチをしたそうです。
如何だったでしょうか。
今回は、ストックホルムオリンピックに関するエピソードを中心に紹介しましたが、金栗氏は、東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力したり、日本に高地トレーニングを導入したりと日本マラソン界の発展に大きく寄与し、「日本マラソンの父」と称された偉大な人物です。
今回紹介した54年8ヶ月6日5時間32分20秒3という金栗氏の記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われています。現に管理人は、まだこの記録まで生きていません。
また、ストックホルムオリンピックから100年を経た2012年(平成24年)に、金栗氏の曾孫にあたる男性が、金栗氏を介抱した農家の子孫を訪ねているそうです。
長い年月をかけた素敵な話だと感じました。
プーマとアディダスの創業者は兄弟だった!〜世界に影響を与えた兄弟ゲンカ
有名スポーツ用品メーカーのプーマとアディダス。
この2つの会社の創業者は実の兄弟なんです。
しかし、その兄弟仲が物凄く悪い…
この仲の悪さによる様々なエピソードがありましたので、紹介したいと思います。
今日は、話を分かりやすくするために、兄・プーマ(本名:ルドルフ・ダスラー)、弟・アディダス(本名:アドルフ・ダスラー)として話を進めていきますね。
2人は、ドイツのニュルンベルク近郊のヘルツォーゲンアウラッハで、靴職人の息子として誕生しました。
1920年に、2人は地元で靴の製造会社を設立し、苗字をとって「ダスラー兄弟商会」と名付けました。プーマが販売を担当し、アディダスが生産を担当していました。
ダスラー兄弟商会は、1936年にドイツで開催されたベルリンオリンピックの際、アメリカのジェシー・オーエンス選手にシューズを提供しました。オーエンス選手が4種目で金メダルを獲得したことで、ダスラー兄弟商会のシューズは爆発的な人気を得ました。
また、ナチス政権がスポーツ振興に力を入れたことを追い風に、ダスラー兄弟商会は飛躍的に業績を伸ばすことになります。
しかし、2人の経営方針は、次第に対立するようになります。
第二次世界大戦中、仕事を請け負うには、ナチスの党員である必要がありました。
プーマは党員となることを拒否して投獄され、アディダスはそれを上手くやり過ごしたのです。
こういった確執が引き金となり、戦後、それぞれが別のブランドを立ち上げることになったのです。
こうして、1948年、兄が「プーマ社」を、弟が「アディダス社」を設立しました。
販売部門の従業員の多くはプーマについて行き、技術者の多くはアディダスのもとに残りました。
そして、2人は何年にもわたってお互いがお互いを訴える泥沼の訴訟合戦を展開します。
デザインや商標など、あらゆる問題を取り上げては訴訟を繰り返し、多額の弁護士費用を投じる羽目となります。
また、プーマとアディダスは同じ地元に工場を建てていたのですが、2人の争いは地元の人々にも影響していきました。それは、互いに相手のシューズを確認してからでないと、会話を始められないほど深刻なものでした。2人の地元、ヘルツォーゲンアウラハは、町の人々が、話す相手が履いている靴を確認するために頭を傾ける様子から、「首を曲げた町」と呼ばれるようになります。
1960年代になると、自社製シューズを履いてもらうためにスポーツシューズメーカーがアスリートに金銭を支払うことが常態化しました。オリンピックの開催時期には、実務を担うプーマの息子とアディダスの息子が宿泊するホテルの部屋の前には、報酬を受け取ろうとするオリンピック選手たちの列ができたそうです。
これを背景に、1960年夏季オリンピックでは、次のようなことが起きました。
まず、プーマはドイツ人の短距離走者アルミン・ハリーに100メートル走決勝でプーマを着用してもらうために報酬を支払いました。準決勝までアディダスを履いていたハリーは、アディダスにも金銭支払いを求めましたが拒否されました。ハリーはプーマで金メダルを獲得しましたが、表彰式にはアディダスで現れ、ダスラー兄弟に衝撃を与えました。ハリーは両者から報酬を得ることを望みましたが、アディダスは立腹して、このオリンピックチャンピオンを出入り禁止にしたそうです。
プーマとアディダスの抗争は、息子達の代になっても続きます。
1970年のメキシコ・ワールドカップで、プーマの息子とアディダスの息子は、ひとつの取り決めを交わします。
「ブラジルのサッカーの神様ペレだけには決して手を出さない」という、いわゆる、「ペレ協定」です。稀代の才能を持つペレ選手を奪い合ったら、金額の高騰は免れません。だから、互いにペレ選手とは提携しないという取り決めをしたのです。
ところが、ワールドカップの閉幕が近づいたある試合で、プーマの代理人ハンス・ヘニングセンとペレ選手は次のような作戦を思いつきます。
①キックオフの直前にペレ選手が審判に話しかけ、ちょっと待つように頼む。
②ペレ選手は膝をつき、おもむろに靴紐を結び直す。
③数秒の間、世界の何百万というテレビ画面いっぱいにペレ選手の靴が映し出される。
この作戦は大当たりし、ペレ選手との提携は、プーマに計り知れない宣伝効果をもたらすことになったのです。
このプーマの裏切りは、アディダスの怒りに火をつけることになりました。
そんな対立を極めた2人ですが、プーマが1974年に74歳で亡くなり、その4年後にアディダスが77歳で亡くなりました。2人のお墓は地元のヘルツォーゲンアウラハの墓地の両端に建てられており、生前に2人の間に大きな溝があったことを物語るかのようです。
ちなみに、現在では、両社ともダスラー家との繋がりはなくなっています。
プーマは、グッチやイヴ・サンローランを抱えるフランスの流通持株会社ケリングの傘下にあります。一方のアディダスは、経営危機からフランス人実業家のドレフュスに経営権が渡り、その後、サロモンやリーボック、テーラーメイドを加えて、あらゆるスポーツアイテムを手がけるグループとなっています。
如何だったでしょうか。兄弟ゲンカが元で世界を代表する2つのスポーツ用品メーカーが出来たとは驚きましたし、スポーツ史…いえ、世界に大きな影響を与えたと思いました。
2人が仲の良いままだったら…歴史は違っていたでしょうね。
イタズラ心が招いた死〜滑石で滑って転んでしまった四条天皇の死とその後
※内容の一部が不謹慎かもしれません。予め御了承下さい。※
今日のネタ、まずは事の顛末を昔話風にしてみていきましょう。
昔々の時は鎌倉時代、四条天皇という、それはヤンチャな天皇がいらっしゃいました。
天皇は、父である後堀河天皇の譲位により、2歳という若さで即位しました。
天皇は、同年代の左大臣である九条忠家と一緒になっては、毎日、毎日、朝から晩までイタズラ三昧。
侍従(じじゅう)や女房たちは、ほとほと手を焼いていました。
そんな四条天皇が12歳のある日のこと、こんなイタズラを思いつきました。
「そうだ!廊下に滑る石を置いて、侍従や女房たちを転ばせてやろう!さすれば、さぞかし愉快であろうな!」
早速、天皇は、御所の廊下に滑石(かっせき)を撒きました。
「さて、上手く滑るかな?」
天皇は、自ら仕掛けの滑り具合をチェックしようとしました。
すると…
見事につるっと滑り…
転んでしまい…
打ち所が悪く、天皇はお亡くなりになってしまいました。
おしまい
…噓みたいですが、本当の話だそうです。
実は、この出来事により、四条天皇がお亡くなりになった後も大変でした。
当時12歳だった四条天皇に嫡子はなく、また、四条天皇の父・後堀河天皇は、四条天皇に位を譲った後すぐにお亡くなりになっていたため、四条天皇に男兄弟もおらず…
また後堀河天皇の兄も、いずれも出家しており、四条天皇の死により、祖父・守貞親王(もりさだ しんのう)の血統から皇位継承が可能な皇子は絶えてしまったのです。
これにより朝廷や鎌倉幕府(北条氏)は大混乱となり、天皇がいない状態が11日間続きました。
この「天皇空位」という状況は、過去450年以上なかったことでした。
そもそも、北条氏は、承久の乱で後鳥羽上皇と揉め、後鳥羽上皇の血統から天皇になる資格を取り上げました。
そうして、四条天皇の祖父・守貞親王の血統から、後堀河天皇が擁立されたのでした。
しかし、北条氏は、四条天皇がお亡くなりになったことで、後嵯峨天皇は宿敵・後鳥羽上皇の孫ではあったものの、北条氏の縁戚であるとして天皇に擁立したのでした。
後嵯峨天皇は、承久の乱の前年の生まれで、父・土御門上皇が土佐に流された後は、母方の貴族の家で育ちました。
その家は没落しており、生活は苦しく、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれていました。
皇位が回って来る予定もなく、貧しい暮らしをしていた後嵯峨天皇からすると、この四条天皇の死により天皇に即位したことは、棚から牡丹餅のような話なのでした。
如何だったでしょうか。
四条天皇の突然の崩御に関しては、このような歴史的背景もあり、巷では後鳥羽上皇の怨霊によるものとの噂が立ったそうです。
「現実は小説よりも奇なり」
この言葉がピッタリな話なのではないでしょうか。
木と結婚した人がいるらしい!ー「木婚」って何?
犬や猫と結婚した人がいる…というのは、何となく分からなくもないけど、物も言わぬ「木」と結婚だなんて。。でも、愛し過ぎたら、そう望む人もいるのかもしれない…
この「木と結婚した人がいるらしい」という話を聞いた時の管理人の心境はこんな感じでした。
それでは、「木と結婚」とは、どういうことなのでしょうか。
調べてみると、これはインドでの習慣とのことでしたので、紹介したいと思います。
まず、インドには、カースト制度という身分制度がありました。
このカースト制度では、人々を4つの階層で分けており、最高位から順に、司祭(ブラーマン)、王族・戦士(クシャトリア)、商業などに従事する人々(ヴァイシャ)、これら上位3身分に仕える人々(シュードラ)とされていました。
どうやら、ヒンドゥー教の祭祀を司る僧侶であるブラーマンの間では、兄よりも先に弟が結婚してはいけないという掟があったそうです。
そのため、弟が結婚したいのに兄が結婚していない場合、兄が便宜的に木と結婚したことにして、弟の結婚を許可していたのだそうです。
この「人が木と結婚すること」、つまり「木婚」は、かつてのインドでは広く行われていたそうです。
では、この「木」と結婚した兄は、このまま「木」と結婚したままなのでしょうか?
どうやら結婚した「木」が倒れたり、枯れてしまうと、普通に女性と結婚することが可能になるそうです。
もちろん、兄に結婚したい相手がいれば、「木」が枯れるのを待たなくても、わざと「木」を倒しても構わないそうです。
苦肉の策とはいえ、面白いことを考えついたものですね。
また、調べていると、インドでは、他にも変わった結婚をしている例がありましたので、いくつか紹介したいと思います。
①蛇と結婚
インドのオリッサ州で、蛇と結婚した女性がいるそうです。
結婚式には、何と2,000人以上の人々が参加し、祝福したそうです。
実は、ヒンドゥー教では、ナーガという蛇の神様がいるので、「神様と結婚できるなんておめでたい!」と周囲は思ったそうです。
ちなみに、夫の「蛇」は、女性の家の近くのアリ塚に住んでいるそうです。
②山と結婚
2006年、インド東部にあるジャルカンド州で、10代のある部族の少年が、山と結婚したそうです。
この少年は山の女神をなだめ、母親にかけられた呪いを解くために、ヒンドゥー教の繁栄の女神「ラクシュミ」の名前の山と結婚したそうです。
③カエルと結婚
2009年、Pallipudupet(読み方が分かりませんでした…)村という田舎で、7歳の女の子2人が、それぞれ1匹のカエルと結婚したそうです。
これは、村内で謎の病が発生するのを防ぐために行われたそうです。
2つの異なる寺院で、この2組の少女とカエルの結婚式が、それぞれ同時に行われたそうです。
2人の少女は、金色のサリーとアクセサリーといった伝統的な婚礼衣装に身を包み、式に臨みました。どちらの寺院にも数百人の村民が出席し、その様子を見守ったそうです。
如何だったでしょうか。
「木婚」にも驚きましたが、様々な「結婚」がありビックリしました。
特に、今回は全てインドでの話でしたが、「流石、インド!奥が深い!!」と感じた管理人なのでした。
コアラの赤ちゃんの離乳食は、お母さんのお腹の中で作られる!つまりはウンチ!?〜毒のあるユーカリを食べるためのコアラの知恵
コアラ、可愛いですよね。
少し汚い話になってしまうのですが、「コアラの離乳食は母親のウンチである」というネタを入手した管理人は、どういうことなのか気になったので調べてみました。
まず、コアラは、カンガルーと同じ有袋類なので、赤ちゃんコアラは、お母さんコアラのお腹にある袋の中で育ちます。こうして、赤ちゃんコアラは、お母さんコアラの袋の中で、およそ半年過ごします。
そして、赤ちゃんコアラは、生後5ヶ月くらいまでは母乳で過ごし、その後およそ2ヶ月ほどは、お母さんコアラのウンチを食べるそうです。
実は、この赤ちゃんコアラが、お母さんコアラのウンチを食べるのには、深い理由があったのです。
そもそも、コアラは草食性で、ユーカリやアカシア、ティーツリーの葉や芽を食べます。
しかし、ユーカリの葉は、昆虫や野生動物に食べられるのを防ぐために毒素があり、一般的に動物の餌として向きません。
コアラは、ユーカリの葉を盲腸で発酵させることでユーカリの毒素を分解し消化・吸収するという特別な消化機能を持っているため、これらを常食とすることができるのです。
さて、ここからが、本日の本題、離乳食についてです。
お母さんコアラは、盲腸内でユーカリを半消化状態にした、緑色の「パップ」という離乳食を作ります。
そして、赤ちゃんコアラは、袋から顔を出し、このお母さんコアラが作った「パップ」を、お母さんコアラの肛門から直接食べます。
これにより、お母さんコアラの消化器官内にいるユーカリの葉の消化に欠かせない微生物が、「パップ」を通じて赤ちゃんコアラの消化器官内に定着することになるのです。
こうして、赤ちゃんコアラは、お母さんコアラと同じように、ユーカリの葉を自分で消化・吸収出来るようになるのです。
ちなみに、「パップ」を食べやすくするためか、コアラの袋の出入口は、お母さんコアラのお尻の方に向かって開いています。カンガルーの袋は上を向いているので、逆ですね。
如何だったでしょうか。
「パップ」は、厳密にはウンチではないのでしょうが、コアラの習性にはビックリしました。
また、こうすることで、ユーカリを食べられる能力を引き継いでいっており、生きていくための知恵だなと思いました。