もんちゃんの雑学集

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名言!それとも迷言!?「ビールは酒にあらず」by福澤諭吉〜禁酒中もビールだけは飲みたい!

一万円札の肖像に描かれるほどの偉人であり、誰もが知る『学問のすゝめ 』の著者でもある福澤諭吉
お堅いイメージがありますが、実は大のお酒好きとして有名なのです。
生涯に渡ってお酒を好み、特にビールに目がなかったそうです。

今日は、そんな福澤諭吉のお酒にまつわるエピソードを中心に紹介したいと思います。


福澤諭吉は、豊前国中津藩、現在の大分県中津市の下級武士の子として生まれました。
中津は門閥制度のしがらみが強く、少年時代の諭吉は封建制の辛さを肌で感じながら育ちました。
下級武士だった父親は出世の道がないため、諭吉を坊主にしようかとも考えたそうです。
この郷土の封建制に対する反発が、後に西洋の平等思想や実力主義を取り入れる思想的背景の原点になったのでしょうね。
既に幼少の頃から、お酒に関するエピソードがあり、月代(さかやき)を剃るのが嫌いだった諭吉に母親が「散髪すれば酒を飲ませる」と説得して散髪していたそうです。

 

22歳の時、諭吉は、兄のすすめで大坂・適塾の門をたたきます。
諭吉が入門した適塾とは、蘭方医の大家・緒方洪庵が大坂に開いていた学塾で、全国から俊才が集っていました。
門下生は3,000人に及ぶともいわれ、長州藩大村益次郎福井藩橋本左内など多くの人材を輩出しました。
塾内には上下の身分などなく、成績の良い者が講師を務めるシステムでした。
適塾の自由闊達な雰囲気は、封建制を嫌う諭吉にとって非常に居心地がよいものでした。
この全国から秀才が集まる塾で勉強ばかりしていたかといえばそうでもなく、仲間たちとお金の許す限りお酒を飲んでいたそうです。
諭吉は、飲みっぷりだけでなく食いっぷりもよく、自らを「牛飲馬食ともいうべき男」と称していました
学生のため常にお金がなく、お酒の調達には苦労したようです。


適塾を卒業して江戸へ出た諭吉は、蘭学塾を開きます。
これが慶應義塾の起源です。
この頃も、お酒は第一の楽しみだったそうです。


その後、3回の海外留学を経験した諭吉ですが、その頃に出会ったビールをきっかけに大のビール党になります。
留学の後に西洋人の生活様式について書いた『西洋衣食住』には、以下のような記述があります。
"「ビィール」と云ふ酒あり。是は麦酒にて、其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し。
(「西洋衣食住」/『福澤諭吉全集』所収)"
現代の言葉に訳すなら、「ビールという酒がある。それは、麦でできた酒で苦味があるが、胸の内を明かすことができる。その苦味を好んで楽しむ人も多い。」つまりビールは、今でいう「飲みニケーション」にぴったりの酒だということを言っているのです。
諭吉は、自宅にビールを常備し、知人が来ると振る舞っていました
お酒は好きだが乱酔することは嫌い、「品のよい大酒飲み」と自覚していました。


このようにお酒が大好きな諭吉ですが、30代半ば頃から体調を崩し、節酒に励むようになります
しかし、大好きなビールだけはやめられなかったようで、ついに「ビールは酒にあらず」という名言を生み、毎日のようにビールを飲んでいたそうです。
「その他のお酒は断ち、飲んでいるのはお酒ではないビールのみ」という持論によれば、禁酒に成功したということらしく、「とうとう酒欲を征服して勝利を得た」と宣言もしたそうです。

 

如何だったでしょうか。
お堅いイメージでしたが、禁酒の言い訳など、何とも言えない人間味あふれるエピソードで、顔がほころびました。
今日の晩酌はビールにしたいと思います。