「サルのノミ取り」で、サルはノミを取っているのではない!
どのサルにもよく見られる仕草と言えば、“サルのノミ取り”ですよね。でも、これって”ノミを取っていない“らしいのです。どういうことなのか調べてみましたので、紹介したいと思います。
どうやら、そもそもサルにはノミはいないらしいのです。
それでは何をしているのでしょうか。これは彼らの日常的なあいさつ行動なのだそうです。「こんにちは」、「お元気ですか」、「仲よくしましょう」これらの意を含めてお互いに毛づくろい…つまりグルーミングをしあっているのだそうです。
誰かが、いかにもノミを取っているように見えたので、そんな風に名付けたのでしょうが、それは誤解で、サルにノミは寄生しません。そもそもノミの幼虫は、体から落ちるフケなどを食べていると言われています。それらを食べつつ血を吸える成虫になってから寄生するには、宿主が同じ寝床に戻ってくれない限り話にはなりません。サルは、同じ寝床に戻ってくるでしょうか。答えは「いいえ」です。彼らは放浪します。毎晩寝る場所は違うのです。ノミが寄生しようがないのです。安住化しない限り(帰巣性がない限り)、ノミは体につきません。サルの仲間では、例外的に私達にはつきます。
では、サルは何を口に入れているのでしょうか。実は、汗が乾いて毛についた塩分を食べているのです。サルは、こうして自分で塩分を補給することが出来る賢い動物なのです。
如何だったでしょうか。てっきり管理人も「ノミを取っている」と誤解していました。今度からサルを見る目が変わりそうです。
木と結婚した人がいるらしい!ー「木婚」って何?
犬や猫と結婚した人がいる…というのは、何となく分からなくもないけど、物も言わぬ「木」と結婚だなんて。。でも、愛し過ぎたら、そう望む人もいるのかもしれない…
この「木と結婚した人がいるらしい」という話を聞いた時の管理人の心境はこんな感じでした。
それでは、「木と結婚」とは、どういうことなのでしょうか。
調べてみると、これはインドでの習慣とのことでしたので、紹介したいと思います。
まず、インドには、カースト制度という身分制度がありました。
このカースト制度では、人々を4つの階層で分けており、最高位から順に、司祭(ブラーマン)、王族・戦士(クシャトリア)、商業などに従事する人々(ヴァイシャ)、これら上位3身分に仕える人々(シュードラ)とされていました。
どうやら、ヒンドゥー教の祭祀を司る僧侶であるブラーマンの間では、兄よりも先に弟が結婚してはいけないという掟があったそうです。
そのため、弟が結婚したいのに兄が結婚していない場合、兄が便宜的に木と結婚したことにして、弟の結婚を許可していたのだそうです。
この「人が木と結婚すること」、つまり「木婚」は、かつてのインドでは広く行われていたそうです。
では、この「木」と結婚した兄は、このまま「木」と結婚したままなのでしょうか?
どうやら結婚した「木」が倒れたり、枯れてしまうと、普通に女性と結婚することが可能になるそうです。
もちろん、兄に結婚したい相手がいれば、「木」が枯れるのを待たなくても、わざと「木」を倒しても構わないそうです。
苦肉の策とはいえ、面白いことを考えついたものですね。
また、調べていると、インドでは、他にも変わった結婚をしている例がありましたので、いくつか紹介したいと思います。
①蛇と結婚
インドのオリッサ州で、蛇と結婚した女性がいるそうです。
結婚式には、何と2,000人以上の人々が参加し、祝福したそうです。
実は、ヒンドゥー教では、ナーガという蛇の神様がいるので、「神様と結婚できるなんておめでたい!」と周囲は思ったそうです。
ちなみに、夫の「蛇」は、女性の家の近くのアリ塚に住んでいるそうです。
②山と結婚
2006年、インド東部にあるジャルカンド州で、10代のある部族の少年が、山と結婚したそうです。
この少年は山の女神をなだめ、母親にかけられた呪いを解くために、ヒンドゥー教の繁栄の女神「ラクシュミ」の名前の山と結婚したそうです。
③カエルと結婚
2009年、Pallipudupet(読み方が分かりませんでした…)村という田舎で、7歳の女の子2人が、それぞれ1匹のカエルと結婚したそうです。
これは、村内で謎の病が発生するのを防ぐために行われたそうです。
2つの異なる寺院で、この2組の少女とカエルの結婚式が、それぞれ同時に行われたそうです。
2人の少女は、金色のサリーとアクセサリーといった伝統的な婚礼衣装に身を包み、式に臨みました。どちらの寺院にも数百人の村民が出席し、その様子を見守ったそうです。
如何だったでしょうか。
「木婚」にも驚きましたが、様々な「結婚」がありビックリしました。
特に、今回は全てインドでの話でしたが、「流石、インド!奥が深い!!」と感じた管理人なのでした。
コアラの赤ちゃんの離乳食は、お母さんのお腹の中で作られる!つまりはウンチ!?〜毒のあるユーカリを食べるためのコアラの知恵
コアラ、可愛いですよね。
少し汚い話になってしまうのですが、「コアラの離乳食は母親のウンチである」というネタを入手した管理人は、どういうことなのか気になったので調べてみました。
まず、コアラは、カンガルーと同じ有袋類なので、赤ちゃんコアラは、お母さんコアラのお腹にある袋の中で育ちます。こうして、赤ちゃんコアラは、お母さんコアラの袋の中で、およそ半年過ごします。
そして、赤ちゃんコアラは、生後5ヶ月くらいまでは母乳で過ごし、その後およそ2ヶ月ほどは、お母さんコアラのウンチを食べるそうです。
実は、この赤ちゃんコアラが、お母さんコアラのウンチを食べるのには、深い理由があったのです。
そもそも、コアラは草食性で、ユーカリやアカシア、ティーツリーの葉や芽を食べます。
しかし、ユーカリの葉は、昆虫や野生動物に食べられるのを防ぐために毒素があり、一般的に動物の餌として向きません。
コアラは、ユーカリの葉を盲腸で発酵させることでユーカリの毒素を分解し消化・吸収するという特別な消化機能を持っているため、これらを常食とすることができるのです。
さて、ここからが、本日の本題、離乳食についてです。
お母さんコアラは、盲腸内でユーカリを半消化状態にした、緑色の「パップ」という離乳食を作ります。
そして、赤ちゃんコアラは、袋から顔を出し、このお母さんコアラが作った「パップ」を、お母さんコアラの肛門から直接食べます。
これにより、お母さんコアラの消化器官内にいるユーカリの葉の消化に欠かせない微生物が、「パップ」を通じて赤ちゃんコアラの消化器官内に定着することになるのです。
こうして、赤ちゃんコアラは、お母さんコアラと同じように、ユーカリの葉を自分で消化・吸収出来るようになるのです。
ちなみに、「パップ」を食べやすくするためか、コアラの袋の出入口は、お母さんコアラのお尻の方に向かって開いています。カンガルーの袋は上を向いているので、逆ですね。
如何だったでしょうか。
「パップ」は、厳密にはウンチではないのでしょうが、コアラの習性にはビックリしました。
また、こうすることで、ユーカリを食べられる能力を引き継いでいっており、生きていくための知恵だなと思いました。
江戸幕府 第5代将軍 徳川綱吉はカラスを島流しにした!
江戸幕府 第5代将軍 徳川綱吉といえば、「生類憐れみの令」が有名ですね。
この「生類憐れみの令」は江戸時代の元禄期に出された多数のお触れのことで、特定の成文法として存在するものではなく、複数のお触れを総称してこのように呼びます。
「犬公方」とも呼ばれた綱吉なので、「犬」だけが対象とされていたかのように思われますが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、さらには魚類貝類などにまで及んだそうです。
ただ、綱吉が丙戌年生まれの為、特に犬が保護されました。
実際、綱吉自身犬好きで、100匹の狆犬を飼っていたそうです。
そんな動物大好き綱吉が、何と「カラス」を島流しにしたらしい!こんな気になる情報を入手しましたので、どういった事だったのか調べてみました。
以下、昔話風!?に再現してみました。
昔々、ある日、時の将軍 徳川綱吉公が江戸城内の庭を散歩していました。
すると、カラスが一羽、飛んできました。
事もあろうか、このカラス、綱吉公の額に糞を落としていきました。
「将軍様の御顔に糞を落とすとは何事か!」
控えていた家臣達は、カラスを取っ捕まえました。
「将軍様に、このような無礼を働くなんて…死罪以外考えられない!!」
しかし困ったことに、綱吉公が出した生類憐れみの令によってカラスを死罪にすることが出来ません。
そこで家臣達は集まり協議を繰り返しました。
そして妙案を思い付きます。
「そうだ、島流しにしてしまおう!」
こうして、そのカラスは、島流しされることが決まりました。
島流し(流罪)が決定したカラスは、特別仕様の牢籠(竹籠)に入れられ、2人の護衛の侍につき添われて、流罪地である八丈島に連れて行かれました。
当時の流罪は、罪人(ここでは罪カラス!?)は流罪地に到着するとその場で解放されていました。
例によって、カラスも流罪地にて竹籠から出されました。
解放されたカラスは、飛び立ち、江戸の方角へ飛んで行ったとさ。
めでたし、めでたし。
この話は、公事方御定書の下巻「御定書百箇条」という裁判の判例集に記載されているそうです。
ちゃんと、「島流し カラス一羽」や「江戸方面に逃走」など、記載されているそうです。
如何だったでしょうか。
いやはや、記事を書いていて、顔がニヤけてしまいました。
裁判の判例集というものは、今も昔も笑える内容がド真面目に記載されているものだなぁとつくづく思いました。
羽田空港の最初の乗客は虫だった!〜 異国に日本の風情を届けた第1便
羽田空港(正式には東京国際空港)は、日本で最も利用客の多い空港です。
管理人も一時期よくお世話になっていました。
世界的にみても、乗降客数が4番目に多い空港だそうです。
そんな世界的な空港の最初の乗客が、何と虫??
どういうことだったのでしょうか。
羽田空港は、日本初の国営民間航空専用飛行場として、1931年(昭和6年)に「東京飛行場」として開港しました。
しかし当時の航空運賃は非常に高額で乗客がいませんでした。
そこで何と、記念すべき第1便には、スズムシとマツムシ6,000匹が乗せられたそうです。
8月25日、午前7時30分、天候は生憎の雨でした。
その飛行機は6人乗りの単葉機で、中国の大連に向けて、滑走・離陸しました。
飛行機を操縦していたのは、もちろん人間でしたが、乗客は大量の虫…
どうやら、大連でカフェを経営していた人が、お客様に日本の秋の気分を味わってもらおうと送らせたそうです。
当時の新聞に「この飛行機には大連の東京カフェーへ送る鈴虫、松虫六千匹が積まれ東京の秋の声を一路大連へと運んでいった」と掲載されたそうです。
虫達は、大連まで、およそ12時間の空の旅をし、無事送り届けられました。
如何だったでしょうか。
まさか、最初の乗客が「虫」だったとは、驚きです。
しかも、乗せられた理由が、異国でカフェを営む経営者が「お客様に日本の秋を届けたい」と思ったからだなんて、風情を愛する日本人らしいなぁと、ほっこりとした管理人なのでした。
昔、猫を時計がわりにしていた!?そして、「猫時計」として活躍した猫達は「猫神様」として鹿児島県にある猫神神社に祀られている
こんばんは。管理人の住む街では雨がしとしと降ってます。
さて、「雨」といえば、『猫が耳を撫でたら雨になる…』なんてよく言いますが、実は、これ、綺麗好きな猫のする事で、余り科学的な根拠はないそうです。管理人も猫を飼っていますが、確かに余り関係無いかも。。と思います。
猫は癒しを与えてくれるだけで十分なのですが、何と「猫は時計がわりになる!」という気になる情報を入手したので、調べてみました。
まず、猫の目の瞳孔を見ると、光の強さによって大きく開いたり、細くなったりしているのがわかります。試しに管理人も飼い猫の瞳孔を明るい部屋と暗い部屋とで比べて見たら…確かに!
今のように時計が普及していなかった昔は、このような猫の瞳孔の性質を利用し、時計代わりにしていたそうです。
この起源は非常に古く、中国・唐の時代にまで遡ります。その後、この風習は海を渡り、日本にも渡来しました。
また古い歌もあり、その歌の内容は、『午前六時と午後六時には、猫の目の瞳孔の形は円形。午前八時と午後四時には卵型。午前十時と午後二時には柿の種のよう。お昼頃には針の様に細くなる…」です。
当時は昼夜の長さをそれぞれ6等分して時刻を決めるという不定時法を採用していたため、同じ時刻でも季節によって変わりますし、もちろん天候にも左右されますが、晴れた日の屋外ではほぼ正確だったということです。
先程の歌の「六つ丸く 五七は卵 四つ八つ柿の実にて 九つは針」を、昔の時刻から今の時刻に直すと以下の通りとなります。
以下、昔の時刻→今の時刻
*六つ(明け六つ)→午前4~6時頃
*暮れ六つ→午後5~7時頃
*五つ→ 午前6~8時頃
*七つ→ 午後3~5時頃
*四つ→ 午前9~10時頃
*八つ→ 午後1~2時頃
*九つ→ 正午
他にも時間を知る方法として猫の目の瞳孔を利用したという記録は残っており、忍者も使っていたそうです。
つまりは「猫時計」を使っていたのですね。
また、時は戦国時代、島津の第17代当主 島津義弘は、この「猫時計」を戦争に利用したそうです。朝鮮出兵の際に、猫を7匹連れていき、隊の7組に1匹づつ猫を渡して「猫の目が柿の種になったら作戦開始」というように各隊に指示を出し、挟み撃ちを同時に行い、勝利しつづけたそうです。7匹連れていった猫のうち、残念ながら5匹は戦死してしまいましたが、2匹は無事に日本に戻ってきたそうです。鹿児島県には、その猫達を「猫神様」として祀った神社、その名も「猫神神社」が現存し、毎年6月10日の「時の記念日」には県内の時計業者が集まり、お祭りが行なわれているそうです。
明治以降、それまで使用されていた不定時法が廃止され、1日を24時間に等分割し時間の長さは季節に依らず一定とする定時法が採用されたため、「猫時計」は姿を消しましたが、猫ちゃん達は、癒しを与えてくれる存在として、今も変わらず皆から愛されて続けています。
猫神神社、機会があれば、是非とも訪れてみたいと思いました。